「火花」 又吉直樹著

  • 2016.01.04 Monday
  • 17:39

 

「火花」は、去年(2015年)の話題作だ。

この本で一躍有名になったお笑い芸人又吉直樹初の中編小説で

2015年の芥川賞を受賞し お笑い芸人など知らない人たちにも 

又吉の名を 一気に知らしめることになった。

 

私も彼のことなどまったく知らなかったうちの一人で 

それほど有名でない又吉君など あまり芸能人に興味のない

ましてや アメリカに住んでいて 日本の情報が少ない環境にいるので

よほど有名どころでない限り 知っているはずもない。

 

彼が小説を書き それが芥川賞の候補になっているなどと

バラエティー番組か何かで 聞いたのがきっかけで

やっと、彼を意識するようになったわけだが、

彼を初めてしっかりと見た時に、

真ん中分けしてだらりと肩まで伸ばした髪形で 地味な顔立ちだち、

どちらかといえばおとなしくて 幽霊みたいだと思った。

が、バラエティー番組の中の彼の受け答えは かなり好感が持てた。

 

そして、なんと彼は 芥川賞を受賞してしまった。

「びっくりポンや」だった。

 

芥川賞が作家の登竜門であることは 周知の事実。

実力のある大勢の物書きが何度も何度も挑戦し 

「いつかは自分も」と思いつつ、頑張る憧れの賞だ。

 

そんな凄い賞を あまり売れてない芸中堅どころの芸人の又吉君が

とってしまったとは・・・。

 

芥川賞がどんな小説に送られようが いつもは気にもとめないのだが

今回は、お笑い芸人がお笑い芸人のことを書いた小説だ

というので おもしろそうだなと興味をそそられた。

世間の流行り、話題作「火花」を読みたいと思った。

 

思っていると願いが叶うらしい。

先日、日本からの友人から 読み終わったからとそれを頂いた。

で、読み始めた。

 

売れないお笑い芸人の話が 延々と続く。

お笑いの世界って こんなに普通の人の日常と違うのかあ!!

あまりにも違いすぎて 理解できない。

理解できないからおもしろくない。

いつになったら面白くなるんだろう?

いつ?

延々と主人公と敬愛する生活破綻者の先輩との交友が綴られている。

地味な元吉君と主人公がダブってしまう。

いつだろう?いつ、この話は展開するのだろう?

と、突然、急展開が起こる。

はあ!

そして、読み終わった。

お笑いの世界のことは 最後まで分からなかった。


JUGEMテーマ:読書

オレンジネットワークにデビュー

  • 2013.10.10 Thursday
  • 21:25
猫の会というのはオレンジカウンティーに住む日本人の趣味の会の名称で、
「猫」は、文豪夏目漱石の「我輩は猫である」の「猫」からもって来た。
「猫」といっても、決して猫を愛する人の集まりではなく
(愛猫家の方も一名いるが、皆ではない)、「いつの日か夏目漱石のような文豪になりたい!」
との各人の壮大な夢がこの「猫」の一文字に込められている。
文章同好会だ。メンバーは現在10名。腕に覚えのある諸先輩方に混じって
私も参加させてもらっている。
活動は月一回の例会。作品を持ち寄って朗読会をする。
そして、作品に関連して皆でおしゃべりをしたり、時には時事問題が取り上げられ、
大いに意見交換をする。
なんと言っても、例会の楽しみはおやつをつまみながらのメンバー同士の暖かい交流だ。
そんな文章を愛する会が始まって12年になる。
昨今、会の継続10年を記念して自費出版した「猫のつづり方」は
なかなかの内容だと好評を得ている(らしい)。
(ととろ図書館にて 貸し出ししている)

各メンバーの得意は、エッセイをしたためることにとどまらず、
短歌、俳句、川柳とあらゆるジャンルに及ぶ。
そして、常に挑戦し続けている。
ここ数年は、年の始めに初句会を開くのが慣例になっている。
「文章の基本は俳句にある」という師の助言が、猫の面々を奮い立たせている。

確かに俳句の醍醐味は、五・七・五の十七文字ですべてを言い尽くすこと。
十七文字にドラマを盛り込めればどんな文章でも
思いのままに書ける様になるはずだ。
日本に比べると格段に季節感の無いこの南カリフォルニアでの作句は
簡単ではないとしても俳句に親しむことは無駄にはならないと信じている。

川柳は昨年の勉強会をきっかけに、メンバーの何人かが始めた。
四苦八苦しながら、試行錯誤で続行中だ。
短歌は、あの由緒正しい日本の歌会始に作品が選ばれたことがあるというY婦人の独壇場だ。

が、好奇心旺盛なメンバーのこと、Yさんに続けとばかりに
短歌にも挑戦する人が現れるに違いない。

最後に川柳を 一句。

南加にて こだわり強める 俳句道  (高木 子猫)
*俳句、川柳、短歌の作品を公募いたします。totorotoshokan@gmail.comまで。

壊れちゃった

  • 2013.03.21 Thursday
  • 00:55
私 なんだか 壊れちゃったみたい。
おかしいな。

うまくおつむが作動しない。
なーんにも考えられなくて
無駄な事ばかりしている。

こんなことしている暇はないはず
と思うのに なーんにもしないで遊んでいる。

こんなのは間違っている!
もっときちんと動かなくちゃ。
と思うのに 体が ちっとも動かない。

思いだけが空回りする。

壊れちゃっているよ。
私。

修理が必要かな?
壊れてるなら。

でも、どこが壊れてるんだろう?
心かな?

どこか途中の回路が おかしくなっているのかな?
分からない。

どうしよう?
どうやって修理したらいいんだろう?

私、壊れちゃったみたい。

俳句と川柳と

  • 2013.01.02 Wednesday
  • 22:36
来週火曜日、猫の会(自称文豪の会)の初句会が予定されている。

普段の会は 短いエッセイを 書いて行き
みんなの前でそれをそれぞれに音読するのが恒例だが、
お正月だけは例外で、お料理を持ち寄ってのポトラック
プラス ミニ句会となる。

お正月から皆 かなりのチャレンジを強いられるという次第。

これはひとえに「文章の基本は俳句にある」との我々の師である
B先生の教えに忠実にあらんとするがための試みである。

カリフォルニアには季節がないし導いてくれる師も居ないと
作句を諦めている私にとって それは一年に一度の
俳句真剣勝負だ。

ここ数年、新年会の日にちが決まるや否や
575が頭の中を回り始める。

さらに川柳などというややこしいものまで始めてしまった最近の私、
575は川柳も同じだから 混乱はサラに増しているわけで・・・。

そこで 今一度 川柳と俳句の違いはと考えてみた。

共通点は、575の定型詩であること。
心情と物事を17文字に凝縮すること。

違いは、川柳には季語がなくてもいいこと。
そして、ものごとをウイットで笑い飛ばす知恵を
言葉にすること。

俳句の場合は、季語と目に映る物事をダブらせて
写真のように切り取って一つの絵にまとめること。
その中に感動が なくてはならないこと。

と、自分なりに理解しているのだが・・・。

皆さん、他にこの二つについてのアイデアがありましたら
教えていただけませんか?


ごめんね

  • 2012.12.25 Tuesday
  • 15:53
さみしさ ぽろぽろ ぽろぽろり。

心が 泣きます。ほろほろほろ。

 

本当の涙じゃないけれど、

悔し涙が あふれます。

心が泣きます。ほろほろと。

 

どうして そんなに意地悪なの?

どうして そんなにひとを傷つけたいの?

どうして 自分の痛みをひとにぶつけるの?


それで 自分が癒されるの?

 

そんなことしたって、もっと傷つくだけなのに。

自分で自分を傷つけて、

傷つくたびに もっとひとを傷つけていく。

そして、またそれ以上に自分が傷ついていく。

 

悪循環なのに。

 

どうして 気づかないの?

そんなことも分らないくらい傷ついてるの?

 

そうなんだ。

きっとすごく傷ついているのね。

かわいそうに。


でも、そんなあなた 好きじゃない。

そんなとげとげ 好きになれるはずが無い。


こめんね。




泣いてしまえ!

  • 2012.10.04 Thursday
  • 13:46
「泣いてしまえ!」

 

いままで のほほんと生きてきた。

マイペースで。


不器用だから、

賢さとは程遠いから、

のんびりが好きだから 

がつがつもせずに、


自分のことだけで精一杯だから 

迷惑をかけることはあっても 

人の役にも立たずに。


だから、なるべく目立ったことをしないように。

静かに 

平和に。


だけど、・・・そうであっても、



少しずつ 少しずつ 人生は進んでいく。

時が とどまっていないから、

知らないうちに自分は 動かされていく。

 

昨日も今日も、明日も 平々凡々 

なーんにも変わらない

と思っていても

なーんにも変わらないように見えていても

わからないところで 

見えないところで

時は 私たちを動かしていく。

 

あーー、また一日が無事に終わった。

今日も 変わり映えしない一日だった。

と思っていても、

刻々と時は過ぎていき 

何かが動いている。

恐ろしいほどの勢いで 

動いている。

 

気がついていないのは 自分だけ。


時の勢いというものには、

誰だって巻き込まれざるを得ないらしい。


なぜ、それが分ったのかって?

 

あることが それを教えてくれたから。

 

この間、飼い犬、ととろが死んだ。

たかが犬、

人間とは違う。

でも、たかが犬の不在が 

心に痛い。


泣きたくない。

泣いてしまうと くじけそうだから。

泣かない。


犬ごときで泣くなんて

私らしくないじゃない。

 

だけど 寂しいよ。

 

寂しいと認めてしまうと

落ち込むから

寂しくないと思いたいのに

そう思えば思うほど 

ぐっとくる。


おまえ、毎日 年取っていたんだね。

だから いっちゃったんだね。

分っていたのに 

わかっていなかったね。 


よし、今夜は 泣こう!

おまえのために。


そうすれば、

明日は きっと大丈夫。 

 

(ととろが小さな箱に入って 家に戻ってきました。

なので、ちょっとおセンチになりました)


さようなら ととろ

  • 2012.09.27 Thursday
  • 12:37
「さようなら ととろ」


 いつもそばにいてくれたね。

慣れないアメリカ生活の最初の頃から

あなたは いつもそこにいた。

 

心が くじけそうになったときも、

みんなが笑っているときも

じっと黙ってそこにいてくれたね。

 

覚えている?

あなたが 初めて家に来た日、

あんまり大きかったから 3ヶ月かと思った。

そしたら 1ヶ月しか経っていなかったんだね。

赤ちゃんだったんだね。

我が家の4女になったんだよね。

 

しばらくしたら 家の中でじゅうたんを堀り初めて 

家の中にいられなくなり、外に出されて さみしかったね。

 

10歳を過ぎた頃 だんだん元気がなくなっていくあなたが

心配になり 友人に薦められて 2匹目の子を 飼いはじめた。

仲間ができて あなたは 元気になった。

 

一緒になって 走ったり 以前のように吠えたり

元気になったね。

 

だけど、数年前から 腰が痛そうだったね。

最近では 座るのが大変そうだった。

そのうちに 立ち上がるのも 大変になってきた。

でも、あなたは いつもがんばって自分でなんでもできた。

 

数ヶ月前、急に具合が悪くなって 一時は覚悟した。

でも、何とか持ち直して 元気になった。

すごい生命力だなって 感心した。

元気になってくれて うれしかった。

 

でも、やっぱり徐々に 大変そうになっていたね。

 

だんだん 声をかけても眠り続けたり

そばに行っても気づかなかったり

触れるほどになったときに やっと気がついてびっくりしていたね。

 

いつまで がんばってくれるかな?

と、思うこともあったけれど、

このまま ずっと元気でいてくれると思っていた。

なのに、・・・。

 

あなたのその茶色い顔がそこにないのは 変だよ。

いつもいつでも そこにいてくれたのに。

寂しいよ。

 

14年間、見守ってくれていたんだね。

私たちが 笑ったり 怒ったり 泣いたりしているとき

そこにいてくれたんだよね。


でも、永遠に一緒にいてくれるなんて思うほうが無理だったね。


さようなら。

ととろ、お役目 ご苦労様。


いままで ずっと そこにいてくれて

ほんとに ありがとう。


〜〜〜


飼い犬を 送るのは 初めての経験で

こんなに寂しいものなのかと

つくづく 思い知らされています。


JUGEMテーマ:小さくて大切な幸せ。

春はいつものメランコリック

  • 2008.03.16 Sunday
  • 00:38
「春はいつものメランコリック」    
                         
春が来た。
いつものように 
春が そこに。

去年と同じに
黄色い洋辛子の花が 
一面に風に揺れている。
きれいだ。


春なのに 
私の春はいつもメランコリー。

あの子が往ってしまった季節だから。
春になると思い出すから。

胸の中の大きな穴が
もっと大きくなって
冷たい風が通り抜けるから。

でも、
生きていける。
大きな暗い穴を持っていたって。

いつも冷たい風が吹いているわけじゃない。
いつもは、暖かい風で満たされている。
だから、寒くない。

でも、春になると
春なのに
冷たい風が吹いてくる。
悲しい思い出が
どこからともなく戻ってくる。

寒い!!
 

たまには詩など

  • 2006.05.26 Friday
  • 14:57
「すれ違っていただけ・・・」 
                  

長い間、傷つけあってきた。

いつからなのか?
何が原因なのか?
誰が悪いのか?
どうして、お互いにそんなにも傷つけあうのかよくわからなかった。

そして、
なぜ、そんなにつらいのかよくわからなかった。
お互いにお互いを傷つけあっているのに
ちっとも気がつかないで苦しんだ。

相手が一方的に自分を傷つけているのだと思っていた。
自分はそれに対抗しているだけだと思っていた。

なぜかよくわからないのに
相手から怨まれていて
責められているといつも感じていた。

自分が相手を恨んだり、
相手を責めていると思ったことはなかった。

ただただ傷ついていた。



日本でも高名なカウンセラーだというその人と
話をしたとき、
気づきは前触れなしにやってきた。
そのカウンセラーが特別何をたずねたというわけでもないのに・・・。

ただ、何が問題なのかと問いかけに対して
夫がもう少し積極的に子供の面倒を見てくれたらいいと思う
と答える自分がいた。

友達と愚痴を言い合っているときなど
よくそれと同じことを繰り返していたのに、
それまでその言葉の裏にある意味を理解したことは無かった。

はっとした。
そうだったのか!
相手を責めている自分がいた。

自分で自分を責めているとばかり思っていた。
息子を亡くしたのは自分の責任だと思っていたはずだった。
相手にその責任を問うたことは一度も無いはずだった。

 
人間は弱い。
自分を責めていたら生きていられない。
辛すぎる。

 あまりにも長い間、
 自分を責めすぎて
 辛すぎて
 いつのまにか、それを相手のせいにしていた。

自分が、その責任を相手に転嫁することで
ようやく息をしている事実が
そのとき、突然浮かび上がった。

そう、13年も。



その後、私は自分を許してやることにした。
不思議にも、自分を許したら相手を許すことができた。
そして、
自分に優しくなれた分だけ同じように他人にも優しくなった。
そして、それ以後、それほど傷つかないですむようになった。



愛の形。
それぞれに違う。

傷つけあうのも 愛の形なのだろう。
が、許しあう愛もそのすぐ隣にある。
なかなか気づかないけれど・・・。

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